江藤新平 裁判長、私は―

江藤新平、彼の功績を端的に言うなれば「日本の司法の父」かもしれません
日本の国民に権利と義務が全くなかった明治初頭という時代に
江藤はまさに心血を注いで、司法制度の確立に命を燃やしたのでした。

日本で唯一ともいえる革命の時代、幕末の沸騰した気持ちのまま
政(まつりごと)を動かそうとする薩長閥に江藤は敢然と立ち向かったのです。

幕末維新で活躍した(勝利した)雄藩を薩長土肥と俗にいいますが
江藤が所属したのはその一つ肥前、鍋島家でした。
SAGA、今の佐賀県です。

江藤は鍋島藩の下級武士に生まれます。
鍋島家といえば、葉隠れで有名な藩ですが
とにかく、ものすごく、勤勉な藩でした。

その一つの背景には
鍋島藩が長崎の警備を任されているということがありました。
国防を任されているという気概と自負を否応無しに、もたされたのです。
また、このことは同時に高度に軍事力を必要とすることを意味しました。

さらに長崎警備ということから
日本でも数少ない、江戸期を通じて外国を意識している藩でした。
このことは幕末を生き抜かねばならない各藩にとって
現在の重火器やニュークリアパワーにも匹敵するほど重要なものでした。

中世までの仏教と同義かもしれませんが
科学から社会制度まで幕末に行きぬく全ての判断材料が、
海外には詰まっていたのです。

背景は以上のようなものと、藩主の性格もあると思いますが
どのように勤勉だったかというと
先祖が槍働きを通じて命懸けで勝ち取った禄高が
藩校の各段階でのテストの成績で減ってしまうということです。
武士が何故先祖としきたりを大事にするかというと
なにも、昔を恋しがったり、伝統を重視しているわけではないのです。
相続分が自分の給料で、普通増えたり減ったりしないからなのです。
しかも、家格はだいたい、戦国時代の先祖の働きで決まっていたので
先祖をことのほか大事にしました。
しかし、鍋島藩に至っては、それが勉強の成績次第で変わってしまう。
「正気の沙汰ではない。」と司馬遼太郎氏もおっしゃっていました。
科挙どころの騒ぎじゃない、気が変になるぐらい勉強をしたそうです。

そのような藩風の鍋島藩に育った江藤新平が
激動の革命期、幕末から明治にかけてどのように生きていったのでしょうか?

江藤もご多分に漏れず、初め枝吉神陽という朱子学者に師事し
尊皇論を掲げて、藩の現状改革を唱える義祭同盟に参画して尊皇活動をします。
この時のメンバーは「副島種臣(神陽の実弟)」「大木喬任」「大隈重信」らでした。

しかし、3年後の23歳の頃には「図海策」という開国論を発表しています。
この内容は、23歳の一介の書生とは思われないほど
理路整然としたものでした。
「かくの如き理も知らず、一身の血気と、憤怒とに任せて合戦に及び、
もし大敗を取らば、全国の人気は恐怖沈縮して、再び興起すること甚だ難かるべし」
と、その書き出しの総論で攘夷論を批判し

たとえ運良く勝つことができても、戦費により人民はますます疲弊する。
「田野荒廃し全国飢餓せん」と言ってます。
ではどうすれば良いのか、ということもちゃんと書いています
「まず、当今の強国と和親し、広く賢才を求め、軍艦を購入し、海戦を練習し
通商を盛んにし、国家を富ますことである」と。
人材は、海外の人物をも登用し、国際社会に積極的に参加して
国際正義を貫くのだ!とも言っています。

これを、幕末のしかもまだ世が沸騰しきっていない時期
いや、今だ幕末と呼べる時期ではないかもしれない
通商条約締結以前に発表したことを考えると、
江藤の識力と視野の広さを感じずにはいられません。

しかし、江藤はこれを発表して単に開国主義の一学者として生きていたわけではなく
6年後の29歳の時には脱藩して志士活動に入りました。

しかし、脱藩は特に鍋島藩では重罪で
死罪となりそうなところをなんとか賢侯・鍋島直正の取り成しで
永蟄居という罪に止まりました。
江藤にとってのこの空白の間に
禁門の変から長州征伐、薩長同盟、大政奉還と時代はまさに維新回転天
を遂げたのでした。
そのぎりぎりの段階まで鍋島藩は態度を保留していましたが
薩長側からの強いプッシュもあり勝ち組に付く事ができました。
これも、鍋島藩の軍事力のおかげですが
むしろ、鍋島藩の火器のおかげで戊辰戦争は薩長が勝ったともいわれています。

江藤は、江戸開城直後から藩の許しを得て
一気に活躍の場を広げるのですが
何者だ?という周りの目に晒されながらも
的確な情勢判断と理路整然とした弁舌ぶりでたちまち頭角を現しました。

この頃の江藤の感想はどのようなものだったのでしょうか?

薩長だかなんだかし知らねぇが
文字もろくすっぽ読めないような与太者の集まりじゃねぇか。
そりゃ大した人物も中にはいるが
皆、自分と自分の藩のことばかり考えて
この国の行く末を思っている奴など一人もいやしない。

そんなところだったかもしれません
江藤はその後、民法編纂に携わりながら
39歳で司法卿、40歳で参議にまで上り詰めます。

江戸城開城直後の新政府に対する献策から
江藤が常に念頭においていた言葉が「人民の安堵」ということでした。
江藤は、議会の制定を望み、国家財政を公開させよといい
復讐、仇討ちを禁止させたり
近代国家としての骨格を数々そして次々と打ち出しました。
しかし、江藤が単に人の為に生きていたのとは違います。

マリア・ルズ号事件という日本の人権に大きく関わった事件が起こった時でした。
清国民を奴隷としてペルーに運ぶ途中だったこの船が
横浜港に入港した時に、清国人が逃げ出しイギリス船に助けられたのですが
イギリスは政府に人道上見逃すことの無いように外務卿の副島に言って来ました。


副島は日本の領海内で発生した事件であり、人道上の理由からも
日本の法権を行使して清国人を解放すべきであると決意しました。
ところが江藤司法卿は、法理論的には海上の外国船船内での事件には
日本の法権は及ばないとの理由で本件の関与には反対したのでした。

このように江藤にとっては、人権は守るべきものですが
理論と人権がぶつかった時は、理論を優先してしまうことがありました。

この事件は日本史的には、裁判でペルー側に遊女という奴隷制度があるくせにと
コテンパンにやられたのですが、そのおかげで
遊郭での人身売買が禁止になるという副産物も産まれました。

また、地元の卒族に暗殺されかけた江藤ですが
その理由は江藤が足軽を士族ではなく卒族に貶め
これまで軽輩と罵られても武士だという面目で
生きてきた人々の気持ちを踏みにじったためでした。

地元の上士も襲撃の理由を聞いて、刑死でなく武士として切腹することを許したぐらいでした。
理屈では民心は解っていても、人の心は理屈ではないことを
江藤は少し理解できていなかったのかもしれません。


明治も5年近く経ち、近代日本の性格付けの段階まで来ていました。
西郷の義(情)か江藤の理かどちらに向かって日本は行くのか?

江藤は司馬遼太郎氏いわく西郷をそして薩長を心の底から憎んでいたようです。
西郷の義(情)とは薩摩の芋づるといわれたように
コネの政治に江藤には見えました。
だから江藤としてはもう一度
日本を作り直さないといけない、と思っていたといわれています。

何をもってこれからの日本の柱とするのか
結局勝利したのは幕末で一番多く有為の人材を失った為に
強力な指導者のいない長州の打ち立てた
「利」の時代でした。

山城屋事件という陸軍(山縣有朋)の汚職事件に絡んで
山城屋事件の翌年の予算編成で問題が起きました
文部省が学校制定を理由に予算を200万円要求したのですが半額に留まり
司法省は裁判所の増設を理由に予算を100万円要求したのですが
半額以下に押さえられました。
しかし、陸軍の要求した800万円は山城屋事件があったのにも関わらず
ほぼ満額認められました。
これは大蔵省を握っていた渋沢栄一(実際は井上馨)と山縣との密約では?
と言われました。

このことに憤慨した江藤は予算削減に抗議して司法卿の辞表を提出しました。
この時江藤は辞表という形で、今一度世に自分の意見を発表しました。

この時の江藤の辞表の内容は、
近代日本のあるべき姿が生き生きと書かれていました。

「富強の元は、国民の安堵にあり。安堵の元は、国民の位置を正すにあり。
それなお国民の位置不正なれば安堵せず、安堵せざればその業を勤めず、その恥を知らず。
その業を勤めず、その恥を知らずして富強ならんや」

江藤は、国民の権利義務を法的に確定し(位置を正し)
生活の安定(国民の安堵)を図れば、国家の富強がもたらされ
日本は国際社会に伍して行けると喝破しました。

「国民の位置を正すとは、婚姻・出産・死去の法厳にして、
相続・遺贈の法定まり
動産・不動産・貸借・共同の法厳にして、
私有・仮有・共有の法定まり・・・」

まさに現在の民法の体系そのものです。
そして罪刑法定すれば
人民は安心して働け(業に勤め)、
もって国は富強なる、と言っています。

残念ながら長文なので割愛しましたが
この辞表の内容こそ江藤の全てではないかと思います。

その後江藤は世に言う「征韓論」の政争で敗れ
最後の大仕事として民撰議員設立白書に署名すると
翌日江藤は、板垣退助が留めるのも聞かず
新政府反対に沸く地元佐賀に帰って行きました。

結果は佐賀の士族に祭り上げられ
「佐賀の乱」の勃発になり、江藤は敗れ去ります。

身の潔白を裁判で述べようとした江藤ですが
福沢諭吉が後に「戦場で討ち取るが如し」といったように
裁判もろくに開かれませんでした。
またその刑は、除族の上、梟首というすさまじいものでした。

全てを取り仕切っていた大久保利通は何を思っていたのか。
蜂起を留まるようにとの西郷に対するメッセージだったのか。
当時の法に則らず、江藤は無念の最期を迎えました。

江藤は廷吏に引き立てられながら
「裁判長!私は!・・・」と言ったといいます。
公平な司法を造ることを夢見た江藤は
その裁判さえ受けさせてもらえなかったのです。

江藤は打ち首になる際に辞世の句として
「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」
と、三度つぶやいたといいます。

中西進氏もその本で書いていらっしゃいましたが
この辞世は遠く1200年の時をへだてて
有間皇子の言葉と呼応する、と。
「天と赤兄と知る。われ全ら解らず」

刑に臨み、無実を天のみが知る。
天が知っているならいいのか
天が知っていてもしょうがないと言うあきらめか。


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