鬼薊清吉 武蔵野に 名もはびこりし 鬼薊 今日の暑さに 枝葉しほるる


山田浅右衛門が罪人の辞世の句を聞いても意味が解らず恥をかいた事から
その三代目あたりから教養を付けることになった。
と言うのは山田浅右衛門吉継の項で書きました。
では罪人達がどのような辞世の句を詠んだのか
ということで、鬼薊清吉を取り上げてみました。


鬼薊清吉は、いわゆる義賊の一人とされています。
しかし、その実際はどうだったのか?
歌舞伎、落語で有名な清吉はどのような人物だったのか
少し辿って行きたいと思います。

鬼薊清吉は泥棒の定石を覆して新しい泥棒のスタイルを確立した人物
と言う風に言われています。

闇夜に乗じて蔵を破り、また闇の中にそっと消えて行く
という、泥棒の王道スタイルとは違い、鬼薊清吉の一派の方法は
「荒稼ぎ」
と言われるものでした。

荒稼ぎとは、天明の頃から見られる手法だったようですが
文化の頃に流行し確立したようです。

ちなみに鬼薊清吉が活躍した時代は
葛飾北斎・十返舎一九・滝沢馬琴・式亭三馬
などが大活躍した時代でした。

「荒稼ぎ」と言うものについて「明和誌」に
「昼夜とも往来にて喧嘩を仕掛、風呂敷包・紙入れ
女は櫛笄をおもに目掛け引きさらいにげる」
とあります。

夜ではなく白昼堂々と数名のグループで商家にも農家にも押し入り時に抜刀して脅し取り
または、天下の往来では喧嘩仕掛けのように数人で取り囲んで
殴り飛ばしたり、辻強盗・恐喝・かっさらいの手口で婦女の櫛笄まで奪い取ると言う狼藉振りでした。
こういうことから荒稼ぎは昼稼ぎとも呼ばれていたと言います。

また記録には多く「盗児」と記されていることから
低年齢層の非行少年(十歳以下も)も多くいたことが伺えます。

彼らの手口は
着物の特性を生かして、女性の襟先裾下などに手をそっと差し入れ
「キャ〜〜!!」と女性がしゃがみこんだ隙に
頭にある簪(カンザシ)等の髪飾りを奪ったりしたそうです。

何も町人だけではなく武家屋敷の窓格子に手を入れて衣類や反物を奪い取ったり
などと、まぁとにかく傍若無人の態度だったようです。


また清吉は浪人のごとく腰に刀をしていたという記録が残っていますから
まさに目をあわさず近寄らず・・・と言うことだったのだと思います。


とにかく手当たり次第に何でも奪い取られると言うことで
江戸の町をパニックに陥れた極めて悪質な泥棒だったと言うことです。


鬼薊清吉の素性は安永五(1776)年に江戸牛込の生まれで
父親は漁師であったと言われています。
小さい時から貧しいため丁稚奉公に出されたようですが
盗み癖のある問題児として捕らわれて
溜預け(非人小屋預け)で育った施設経験児であったようです。

清吉の判決文にも「無宿人入墨鬼坊主事入墨清吉」とあることから
盗みの科で入墨持ちだったところ、それを焼いて消していたようです。
江戸払いを申し付けられていたことから
散々江戸であくどい昼稼ぎをやった挙句
諸国へと高飛びして京都の大仏堂前でついに召し取られ江戸へと護送されたとあります。

別の記録には「強盗追剥等を犯し天下に出没す。
勢州にて縛に就き文化 2年 4月26日江戸に押送せられ
6月26日他賊 2人と引廻との上千住に梟せらる」
ともあります。

いずれにせよ、江戸町奉行小田切土佐守によって
引廻しのうえ獄門とされました。
時に鬼薊清吉30歳でした。

ただ、この時の取調べでも神妙とは程遠い態度で
「大罪も小罪に言いぬけなどする類」と、巧みな弁舌を持って言い訳しかなり粘ったようです。

そして、この江戸市中引廻しの時に頼んでおいた上記の辞世の句を
フテブテシく吟じ上げたと言われています。

確たる証拠はないのですが、自分が当たったすべての資料に
「こんな辞世を彼が作れるわけないので
誰かに頼んでおいたことは間違いない」
と書かれていました・・・。

鬼薊清吉のお墓は現在は池袋の雑司が谷にあります。
わざわざ看板があり「鬼あざみ清吉のお墓入り口」と書いてあります。
こちらのお墓も鼠小僧次郎吉と同様当事から人気があり
今でもご利益にあやかろうと削って帰る人がいます。
理由は鼠小僧と同じく昔は博打うち、今は受験生だそうです。
戒名は妙法得寶信士

この頃のワイドショー?をにぎわした事件が
藤岡藤十郎の江戸城御金蔵破り
上野寛永寺の格式高い真如院の院代を勤める若僧が千住の女郎と千住大橋で心中
そしてこの鬼薊清吉の処刑でした。

この三つの事件をひとつにして芝居に仕立て直した「小袖曽我薊色縫」
が空前の大ヒットを遂げるのです。
これによって、鬼薊清吉は大人気になりました。

江戸の超大家である三田村鳶魚はその著書で
「鬼薊清吉 山谷円常寺 坊主アガリノ盗賊
小夜宵清心の浄瑠璃名高シ
正面得実信士トアリ」
と、ある記事を指摘して史実の歪みを批判しているようです。

山谷円常寺は雑司が谷に移される前の清吉のお墓のあった場所です。
ここに参詣する人が絶えなかったことや
芝居の人気が物凄かったことで
「小夜宵清心」が大ヒットして誰もが口ずさんだことなどが耐えられなかったようです。

現在でも、夏目漱石、泉鏡花、大町桂月、永井荷風などのお墓がある中
お花や線香の香りが絶えない不動のナンバーワンのお墓は鬼薊のお墓です。
なんと、悪運にでもあやかりたいと
代議士の参拝が相次いで幟旗までひるがえるという始末なのです。

鬼薊清吉などは、歴史に名を残すほどの大盗賊でもなく
茶目っ気があるわけでもなくお粗末な小悪党と言えるものなのに
黙阿弥という大先生が浄瑠璃なんかにしたために
美化され劇化されてしまった為に平成のこの時代にもこの賑わいヽ(^_^;))

このことについて、参考にさせていただいた
「江戸の犯罪白書」
の重松氏がこのように書いていらっしゃいます。

くやしいことに、この意味で、逆効果ながら江戸時代のマスコミに当たる芝居や文芸の力は
現在よりむしろ大きかったことが思い知らされる。
夢・現実と言われるが後世の評価がこれほど史実と相違する兇悪犯も珍しい。
鬼薊のお粗末と意外性は、幕末にみる世評の歪み、大衆の身勝手さ、興味本位のマスコミと、
まさしく悪を憎む心情や被害者の痛みをも忘れてしまった
異常な悪人崇拝、好奇嗜虐の文化に麻痺倒立したものがあった


こうして見ると幕末の世評と現在の世評があまり変わらない様な気がします。
また
こんな鬼薊を倒立して持ち上げた大衆マスコミである

と言う部分も現在とあい通ずる部分があるような気がしました。

もちろん鬼平犯科帳にもこの鬼薊清吉は登場するようです(笑)。

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参考文献
「江戸の犯罪白書」 重松一義 PHP文庫
「辞世千人一首」 萩生待也 柏書房


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