雲井龍雄 死不畏死 生不偸生 男兒大節 光與日爭 道之苟直 不憚鼎烹 眇然一身 萬里長城

雲井龍雄、これは彼の変名です。
本名は小島守善
小島辰三郎や龍三郎とも言われますが、これは通称であると思われます。
幕末の志士らしく彼も何度もそして色々と変名しました。
ここでは、一番有名であると思われる雲井龍雄で統一したいと思います。

雲井龍雄は志士ですが、詩人でした。
むしろ詩人が志士となったといっていいと思います。

雲井自身は否定するかもしれませんが
自分には詩人雲井龍雄の詩魂が雲井の人生を決定付けたと思えます。

雲井龍雄は弘化元(1844)年に
米沢藩士中島総(手偏)衛門の次男として産まれます。
沖田総司と同じ生年ということになります。
その後父の実家である小島家に養子入りしました。

時は幕末、幼少より秀才の誉れ高かった龍雄ですが
その激しい気性から藩校では彼を容れることが出来ず
藩校を辞めてしまいます。

家督を継いだ以降は漢詩作りに励み
この後、戊辰戦争やその後の人生の節目節目で
彼はその有余るエネルギーの放射をするかのように
激しく、心を揺さぶる詩を作ります。

慶応元(1865)年に江戸詰めになると
安井息軒の三計塾の門を叩きます。
この塾でも雲井はその秀才を認められました。
大政奉還まであと二年という激動の時代を江戸で過ごした龍雄は
溢れる情熱を滾らせて、多くの人と交わりました。
この時の経験から、人との交流を重視した龍雄は
米沢に帰国後、藩の外交官ともいえる
探索方への異動を願い出て無事その職に就きます。
そして、各地での探索を認められ
とうとう激動の京都に足を踏み入れるのです。

京都では、土佐の後藤象二郎や
長州の広沢真臣、時山直八らと交流を結びます。
「北越日記」には
「雲井龍雄は王政復古の変に及んで
太政官の内謀密議をおおむね探らなかったものは無かったといえる。」
と記されている程
その中心人物にまで交流を深めており
また信用されていたことが解ります。

雲井は京都での活動で
いわゆる佐幕派からも尊皇派からも
猜疑心と恐怖の目で見られている薩摩に敵愾心を覚えます。

王政復古から戊辰戦争が始まり
米沢藩にも会津討伐の勅命が下るにあたって
これを阻止すべく雲井は米沢への帰国の途に着きます。

そして、雲井龍雄は主に越後方面の戦いで前線に出動し
反薩に情熱を傾けました。

この時に雲井龍雄が記し奥羽列藩同盟の名で出されたのが
かの有名な「討薩ノ檄」です。

その概要をごくごく簡単に記しますと

薩摩は尊皇攘夷を主張したが
急に外国に迎合しその歓心を買い
尊皇攘夷の主張はただ幕府を倒す為の悪巧みだったのか!?

土地を侵し財産を掠め、鶏牛を盗むも恥じることなく
これを太政官の規則だという
これは今上陛下に暴虐無道の君主の汚名を被せるようなものである。

また徳川の親族および勲臣を使ってその主君を討たせるのは
人として守るべき君臣の義・長幼の序・朋友の真などの道を破滅させるものである。

このほか色々と書き連ねて
このような薩摩を討つべく列藩は立ち上がったのであると記します。

この檄文は列藩の精神的主柱と為り
これを見た列藩、他の東軍の武士は
まさに血沸き肉踊り大いに発奮したといいます。

ここで重要なのは、徳川擁護の主張は見当らず
また、長州の名前も出てこないということです。

この点、多くが薩長の・・・と雲井の項で書いているものがありますが
どうやら彼は京都時代から長州や土佐の志士と会合し
薩摩を討つことを献策していた節があること
彼は、その最期まで広沢真臣ら長州の参議を
多少なりとも信じているところから
長州に対しては少し違った感情を持っていたような気がします。
さらに付け加えるなら薩・長の離間によって
ことをなすと考えていたのかもしれません
また、徳川再興自体を龍雄が目指してなかったことが伺われます。


雲井龍雄は会津救援の為、会津に向かいますが
会津はその周辺まで包囲されており、已む無く米沢に引き返します。
このときに偶然に合流したのが
あの新撰組二番隊組長副長助勤である永倉新八でした。
米沢で再起を帰そうとした二人でしたが
米沢では既に降伏の準備を進めておりこれもかないませんでした。
龍雄は永倉らを自腹で米沢に匿い
雲井の情熱に感動した永倉は江戸へ帰る際に
捲土重来を誓い合って腰の大小を龍雄に預けました。

さらに龍雄は西軍の後方を攪乱すべく日光方面に突出するも
多くの仲間が斬られ命からがら逃げ帰るしかありませんでした。

こうして雲井龍雄は持ち前の詩人としての活躍はあったものの
武人としての本懐を遂げぬまま明治を迎えました。

米沢に戻った龍雄でしたが
新政府の「万機公論に決すべく」というスローガンの下に設置された
「集議院」に米沢藩の代表として選ばれ再度東京へ向かいます。

東京では、龍雄のことを
あの討薩ノ檄を作成した雲井の事であるから
今回の上京もきっとよからぬことを企んでいるに違いない
という猜疑の目で見ていました。

龍雄は集議院でドンドン献策しますが
彼を見る猜疑の目と彼自身の政府に対する鬱積から
直ぐに集議院を辞職してしまいます。

こうしてついに龍雄は野に放たれたのです。
しかし、龍雄は米沢に帰らずに江戸で暮らし始めました。

この頃の実家に宛てた手紙には
何も怠け者になったとか、そういうわけではないのですが
少し、風流な生活をしております。
と、ただ無為な時間を過ごしているわけではないことを匂わせます。

そして、雲井龍雄は明治初期の最大の社会問題である
版籍奉還によって溢れかえった浪士達をまとめ、
彼らをもって朝廷に仕える一軍を組織することを思いつきます。

ここに「帰順部曲点検所」が誕生したのです。

名目は失業者の保護と順次帰国を促すこと
新政府への斡旋などでしたが
人数が膨らむに連れて有象無象も増えて行き
その人数が雲井の部曲だけで千二百人あまり
他の部曲を入れて八千人を超えた時
新政府も黙って見過ごすわけにはいかなくなりました。

再三の解散命令にも耳を傾けず
じっと部曲の屯所に身を置いていた龍雄ですが
ついにその罪が米沢藩に及ぶに至り
屯所である寺から出て米沢に戻り蟄居しました。


こうなると話は既に高度に政治的な問題となっていました。
表向きいくら恭順の誓詞を掲げていても
そのメンバーや言動を考えても
最終的に政府の転覆を狙っていることは明白であり
とうとう龍雄は江戸にて刎首となります。

また部曲では軍資金調達のためという名目で
贋札を多量に作っていたグループも捕らえられました。
しかし、贋札グループのトップであり片腕であった宮沢亡き後
部曲のナンバー2であった城野至は消息不明だったのです。
おそらくは政府軍の密偵であったろうと思われます。

「城野程の人物がまさか裏切るわけは無いだろう・・・」
と雲井は最後まで彼のことを信じていたといいます。

組織の幹部がこのような有様では
雲井の思惑は全て政府軍に筒抜けであったと思います。

しかし、死罪の証拠となっている政府転覆の会合も
ほぼ全てが政府側の捏造と考えられており
いずれにせよこれだけの在野の勢力を明治初期の新政府が
容れるわけは無かったことから雲井たちは処分されたのです。

彼の首の前で永倉新八は涙を流し
泣き崩れたといいます。


上述の辞世を


死不畏死
生不偸生
男兒大節
光與日爭
道之苟直
不憚鼎烹
眇然一身
萬里長城


死して死を畏(おそ)れず
生きて生を偸(ぬす)まず
男児の大節は
光(かがやき)日と爭(あらそ)う
道 之(これ)苟(いやし)くも直(なお)くんば
鼎烹(ていほう)を憚(はばか)らず
眇然(べうぜん)たる一身なれど
万里の長城たらん



自分は、死ぬに際して死をおそれない
まして意味も無く生きながらえようとも思わない
男子の大儀というものは
太陽の輝きにも負けぬくらい輝かしいものである
もし自分が信じている道が正しいのであれば
釜茹でになってしまってもかまわない
とるに足らないこの身ではあるが
わが心は万里の長城となりこの国の行く先を守るであろう。



首を刎ねたのは、かの山田朝右衛門
江藤新平や西郷の乱を待たずに
新政府として最初の見せしめとなったのが雲井龍雄でした。
享年27歳

彼の詩は後年、君主たるものの心構えの基本であるとして
皇太子時代の昭和天皇の前で吟じられました。


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参考文献
謀殺された志士雲井龍雄  高島真 歴史春秋社
もう一つの維新  夏掘正元 文春文庫

参考サイト
詩詞世界





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